Koshin 2018.03.24

【2/2スポーツ文化フォーラム開催レポート】 野沢龍雲寺住職・細川 晋輔 氏 「スポーツとは’己事究明’」

「心豊かな生き方」そして「スポーツの文化的価値」について多彩なゲストとスポーツドクター辻が対談を行う<スポーツ文化フォーラム>。第9回目となる今回は東京世田谷の閑静な住宅街にある大澤山龍雲寺にて、ご住職の細川晋輔氏と禅を通した豊かな生き方について語り合った90分間になりました。

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御経がはじまる合図といわれる法鼓に続き、細川氏に導かれ会場の皆さまと心を一つにして「白隠禅師坐禅和讃」をよむところから、素晴らしい学びの場がはじまりました。

 

「衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて」からはじまる「白隠禅師坐禅和讃」は日々迷える私たちに、迷いがあるから悟りがあり幸せがあることを信じさせてくれる御経だそうです。今回は限られた時間の中、対談の冒頭でその教えをいくつかご紹介いただきました。

 

 

◇迷える私たちがあってこそ幸せがある◇

「衆生」というのは迷える私たちのこと。「仏」というのは幸せを意味しています。迷える私たちは元々幸せをもって生まれてきている。例えてみるならば、水と氷のごとくである。迷って頑なになって、捉われてしまって身動きが取れない私たちを氷に例えまして、自由自在に動き回れる幸せを水に例えています。小さな器に大きな氷は入らないんですけれども、氷を溶かして水にすれば、どんないびつな器も、小さな器も満たしていくことができる。油を水にするのは難しいですけど、氷を水にしていくのはそんなに難しくない。だから私たちは坐禅をしながら一滴でも、二滴でも氷を水に替えていこうという感じになります。
そして、「水を離れて氷なく」は、迷える私たちがあってこそ幸せがある、だから迷うことも悪いことではない、そういうことがあってはじめて幸せがあるということになります。

◇自分の心の中にしか幸せはない◇

「衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり」というのは、どうしても私たちはパリとかニューヨークとか、ハワイとか北海道とか沖縄とか、白金とか麻布とかに‘幸せ’というものがあるように思ってしまうんですけどそうではない。自分の心の中にしか幸せはない。遠くに幸せを求めてしまうのは、例えば水の中にいて喉が渇いた、渇を叫ぶが如くなりということになってしまうということです。

◇幸せの一番の近道◇

御経の最後にある「当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり」という言葉。当処というのは今まさに目の前のこと。蓮華国というのは、最高で最良のベストなことを指しています。私で言えば、今自分が置かれているこの龍雲寺の住職としての立場、すべてを自分にとって最高で最良でベストだと心から思っていくというのが幸せの一番の近道になるということです。今、目の前で自分が与えられたお仕事、また自分の立場、すべてを‘当処即ち蓮華国’、最高で最良のベストだと思うことができたなら‘此の身即ち仏なり’、水と氷のごとく、氷がすべて溶けて水になって、幸せはおのずと自分の手の中にあるんだ、という結びになっています。

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それでは、御経を唱えたり、坐禅の時間を習慣化することが難しい私たちはどのように禅で求められるような心境を得ることができるのか。坐禅の意義とは何かという細川氏の解説を交えて語っていただきました。

 

 

坐禅というものを句読点で例えると、点と丸だけ100個並んでも何の意味もないですけど、皆さんの人生を文章とするならば点と丸を効果的に打っていくと文章が引き締まっていく、それと似ていると思っています。そういう道を究めるのは私たちの生きがい、生き様だとするならば、皆さまに効果的に点と丸を打っていただく場所を提供していくということが、今、禅の世界に求められているのかなと思っています。
点と丸は坐禅だけだとは思っていなくて、本を読むとか、歩くとか、色々ある中で坐禅がいいと言う人には坐禅をしていただきたいなと思うんです。

では、日常生活にある身近な活動や行動が点や丸になり得るならば、私たちはどのようにその行いを自らを客観視するものに繋げていくことができるのか。

例えばマラソンランナーがマラソンをしていても点と丸にはならないと思うんですよ。それは自分のやるべきことなので。でも私たちが仕事の中で1時間走ってみると、それは自分を顧みる時間になり、人生がより引き締まっていくんじゃないかと思うんです。
坐禅以外にも、例えば滝行も生きているということをダイレクトに感じることの出来るとてもいい手段だと思っています。水圧に潰されそうになって何も考えられなくて、寒いとか、冷たいとか、恥ずかしいとかいうのも消えて。ただ、明日2時から滝行に行きましょうと言っても簡単には行けないですよね。そうなると畳一枚で何か出来ることはないかということで坐禅がある。滝行と坐禅は同じものを求めているんですけど、坐禅の一番いいところは、いつでもできる、5分でもできる、というところなんです。

厳しい修行を経験されてこられた細川氏が、日々の生活で揺らぎ捉われ、苦しんだり、イライラしたりしている私たちに思うこと、そして禅の悟りとはどういうものなのか。

自分だけが特別なことをしていたという感情は全くないですが、皆さんが忙しすぎて見過ごしてきたものを一回ちょっと止まってみてみるというのが本当に大事なことだという思いはあります。禅の悟りというのはいきなりパッと現れるものではなくて、自分が今まで気づかずに歩いてきた道の中にあるとしたら、それを止まって考えてみるという時間をまずはつくってもらいたいと思うんです。それが坐禅だったら僕は嬉しいですけど、読書でも、山登りでも、何でもいいと思うんです。何か自分のことを明らかにしていく、再発見できる、そんな手段を見つけていただけたら幸せになれるんじゃないかと思うんですね。
私たちの修行というのは、あえて周りがすべて遮断してくれるという意味で本当に恵まれています。でも、みなさんはあえて遮断せずに、色々持ちながらも悩み苦しんで来られているわけです。だからこそ、ちょっと立ち止まって気づきがあれば、それを自分の糧にして人生をごきげんに、幸せに生きていくことが出来るのではないでしょうか。 

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本レポートの最後に禅の修行をされてこられた細川さんに語っていただいた「スポーツとは」。
禅の二つの教えに結びつく素晴らしい教えをご紹介致します。

180202_3134_Rスポーツとは、己事究明という四文字熟語で行かせていただきたいと思います。坐禅は実は全部己事究明のためにしていること。自分を明らかにすると幸せになれるということなのです。スポーツ選手などご活躍されている方というのは何か人に感動してほしくてやっているのではなくて、自分のスポーツを一生懸命やっている結果、僕らが感動しているのだと思うんです。今度オリンピックが来ますけど、みせるプレイとかではなく、これ以上ないというギリギリのところを見せられると立ち止まってみてしまったり、涙が流れてきたり、手を合わせて応援したくなったりするのかなと。己のことを明らかにしていく、その結果、人に感動を与えるということに繋がって行くのではないかと思います。禅の教えはすべて己事究明と人の為に尽くせという為人度生に行きつきます。己事究明を振り上げた刀とするならば、振り下ろす為人度生も必要で、色んな人にこの坐禅の良さを伝えていくという二つの行いがあってはじめて禅僧として一人前なんだということです。為人度生というのは、人を救って行こうという意味で、自分だけではなくて、みんなと一緒にあがっていこうという、仏教の大切な心です。

 

幸せとは何か、厳しい修行の日々など、今回書ききれなかった心に響くお話は、辻マガなどまた別の形でお伝えさせていただきたいと思います。
次回、5月のスポーツ文化フォーラムは動画配信で皆さまにお届け予定です。
詳細は改めてご案内いたしますので楽しみにお待ちください!